熱帯日夜夢日記

カマンクリスナ店主のきまぐれ日記です。「ウナのこと」日記では愛犬(ロットワイラー)の骨肉腫についての経過・体験談をまとめました。

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2006年5月20日(金)
ウナのこと エピローグ2 −七七日の法要・本当に伝えたかったこと−


先月4月21日はウナの七七日(四十九日)の忌日法要をした。
ウナが亡くなりお葬式・火葬とショックの連続で疲れ切ってしまったので
初七日の日は身内のみで静かに過ごし、お寺での法要は行わなかった。


七七日は迷ったけど、やはりお寺でお経を上げて頂き、
初七日の分も合わせてきちんと供養しようと言うことになった。
骨となったものは
「帰るべきところへ帰る為、輪廻転生の為に
最終的には土に返してやらねば、行き先を見失って迷う」
と言うらしいのだけど
私たちはどうしてもまだウナを土の下へ埋めてしまいたくなかった。

幸いか、父はウナが死んだのち父自身の(口頭だけど)遺言を残した。
「自分が死んだらその骨壷にウナの骨と共に入れて欲しい。
入りきらない分は大好きな海へ流してくれ」
と言うことだった。
父もそう言うし、あれほど一人になりたくなかったウナだ、きっとその日まで
迷わず我々と共に居ることを喜んでくれるだろうと思った。

さて、私はこの日記をウナの為と自分の為、そして愛犬家の方々に読んで欲しいと
思って書いてきた。
図らずもこんな辛い日々と結果を書き連ねることになったけれど、
後になってその軌跡を読み返しては、こんな辛い内容を果たして誰が好んで読みたいだろう?
と我ながら思う。

こよなく自分の犬を愛し、生活を共にしている人の殆どは大抵の苦難による
精神的なダメージがあったとしても愛犬の存在によって
それはどん底まで落ちる前に制御されているだろうと私は思う。
だから犬を飼っている人の大抵はそこそこ明るい。

だから、その明るい生活を送っている愛犬家は果たして
「自分と自分の犬にこんな予想もしたくない現実が起こかもしれない・・・」
なんて事を
誰が考えてみようとするだろうか?というおせっかいな疑問があった。

日記では日々起こる厳しい現実をそのままストレートに書いてきた。
今、あらゆる感情は置いておいて愛するものがこういった難しく
救いようのない骨肉腫という病にかかったとき、どうしたらどうなったか、
どうするべきだったかを客観的にその総括を書こうと思う。

「ウナのこと」を頭から読むのが辛い人はこの部分だけを読めばいい。
それほどに私は伝えたい。

骨肉腫でなくとも、重大な病気に罹ったあなたの大切な犬をどうか
1日でも幸せに長く生かして欲しいから。




まず初めに、「骨肉腫」と診断された場合、即時次のことを認識しなければならない。

まず第一に(患部の切除)断脚は免れないこと、
そして第二に殆どの場合(ガンの)転移があり、
天寿を全うできないものであること。

これらのこと、この病気を知り、また覚悟して、
残りの時間をいかに過ごさせるかと言うことに全精力を注ぐべきであると思う。
「余生をいかに」と考えると言うことは、愛するものの死を覚悟すると言うことであり、
突然降って湧いた不幸をなかなか受け入れられるものではないが、いち早く冷静になり
病気と向き合うことが、その病気になったものの余生を楽に生きさせてあげられる
大切なターニングポイントとなることを、私はその過去を振り返り、
今身をもって知ったと思う。

万物においてそうなのではないかと私は思うのだけど、
今生きている事が死ぬ瞬間より大事、そしてまた「いかに死ぬか」のために今を生きている。
そして愛玩動物の場合、その生死・一生は飼い始めたその時から
飼い主の手にゆだねられている。



始め。

<犬の状態>
脚を引きずりまではしないが時折痛い様子を見せたり、
脚を洗う時に掴んだりすると痛がって怒る。


<家族の対応>
捻挫かと思い、散歩の距離を短くししばらく様子を見る。

<犬の状態>  改善しない。

<ここまでで反省すべき点>  
軽視せずいち早く病院へ行くべき。
犬は痛覚に対し強い、それなのに痛がると言うことははかなり痛い証拠、
本来猶予はないはず。


<家族の対応>
病院へ連れて行き相談する。


<獣医師の診断>  
捻挫や腱鞘炎などが考えられるが、麻酔してレントゲンを撮り内容を
見るまでわからないと言う。
しかし「骨肉腫は滅多にないのであまり心配しなくても良いだろう」とも言われる。
取りあえず痛み止めと消炎剤で対処。

<家族の対応> 
レントゲンを撮るのに全身麻酔が必要と言われ躊躇。
被爆もだが麻酔による事故率は低いとは言えない。

<ここまでで反省すべき点>  
@一人の獣医/病院の見解だけに絶対に頼ってはならない。
なぜならば獣医それぞれに経験・診断・処置方法・考え方全てにおいて
かなりの差があるからだ。
出来るだけ別の獣医、下調べをして疑われる病気や症状に詳しい
経験のある獣医をセカンドオピニオンをとして診てもらうこと。
A状態を軽視して検査を拒んではいけない。
犬の体調が改善しないなら、そこには必ず問題が潜んでいる。


<犬の状態>
痛みは更に酷くなり、痛み止めなども効かなくなる。
最終的にはごく短い散歩の途中でも痛がって動かなくなった。
(人間で言う)前腕部には僅かな腫れが見られる。


<家族の対応>
検査を決断。

<獣医師Aの診断と対応>
最終的に無麻酔でレントゲンを撮る。
骨肉腫、
即刻手術(断脚)すべきとの判断。


<ここまでで反省すべき点>
初めレントゲン検査するには全身麻酔と言っていた獣医Aだが、
話しの流れから必ずしも麻酔下で無ければ
撮影ができないわけではないと言うことではないがわかり、交渉。
最終的に無麻酔でレントゲンを撮ることが出来た。
当初はこちらも鵜呑みにしていたが初めから
「何故麻酔が必要なのか?他に方法はないのか?」
などを言及しておくべきだった。
先にも挙げたが痛がっている状態を繰り返す間に別の獣医にかかり、
他の見解も求めるべきだった。


【 断 脚 手 術 】
手術内容は肩甲骨下の上腕部3分の1を残して断ち、
患部含むそれ以下を全て切除するもの。
従ってその位置で骨を切り、長めに残した筋肉と皮膚で断端を包み縫合する
同時に抗癌剤(×2回)投与(のちに間を置いてもう1回投与)。


<ここまでで反省すべき点>
手術内容や抗がん治療について「相手はプロだからしつこく聞くのは失礼」と思わず、

また対等に質問が出来るくらい勉強(宣告から施術まで非常に短い時間であったが)
しておくべきであった。

骨肉腫の場合、迅速に判断し切除する必要があるが、「どこから切るか」
それは後々重大な問題となった。

それはまず断脚の意味にある。断脚は延命の意図ではなく、
転移の可能性を出来るだけ低く抑えたり、またそれまでの時間を稼ぎ
残された時間をいかに幸せに快適に過ごさせるかということに関ってくる。

後にかかることとなったセカンドオピニオンの獣医師Bによれば、
最初の手術の段階で肩関節から上腕骨以下を「切除」でなく、
関節部分より「外す」ことがベストであったとの事。
その理由は、
骨を途中で切るということは手術時間を長くし、患畜に負担・ストレスをかけたり、
後の治癒のスピードにも大きく影響してくる。
患部が末端にあったとしても、可能性を含む部分をより大きく断つことで
のちの可能性を大きくし、また切除後の治癒を早めて快適な余生を過ごさせる目的である。

<犬の状態>
手術翌日。やや呆然とした様子。
一本前脚が無くなったことによるショックというよりも、「大丈夫だから」とだまされて
家族と離れ病院に置き去りにされたことの方がショックのようだった。
一本前足が無くなると座位の状態でも安定しない。
傷口はむごいの一言だった。

<家族の対応>
手術後2日間の入院、のち自宅療養のため連れ帰る。

<犬の状態>
身体のバランスはすぐに取れるようになり、2〜3日ほどで3本足でピョンピョン
飛ぶように歩けるようになる。
だがこの後4ヶ月もの間、断端部の痛みと傷口からの体液(ショウ液など)の排出や
突然の出血の為傷口の縫合再手術など、症状の悪化が続き悩まされる。
傷口が塞がらないということは感染症などの危険に晒された状態であり
(散歩などの)自由が無く、
また痛みや不快感、精神的ストレスを伴い続けるものである。
表情がなくなってきた。


<家族の対応>
その間根気良く施術した獣医師Aの所に治療に通う。

<獣医師診断と対応>
具体的・積極的な措置無く、ただダラダラと消毒などの治療。
患部からの分泌液について「化膿してるのではないか」
と幾度たずねても具体的な検査などの提案は行われなかった。

<ここまでで反省すべき点>
その時その時の瞬間に「もうすぐ良くなるのではないか」と思い、願い続けたことと
主治医であった獣医師Aを信じていたかったために、長期にわたり状態が改善せずに
居たのにも関らず別の具体的な方法(セカンドオピニオンなど)
への転換に踏み出せなかった。
義理人情よりも短い犬の余生のクオリティを尊重し、もっと早い時期に
積極的な方向転換を試みるべきだった。


<家族の対応>
獣医師Aに見切りをつけ、セカンドオピニオンとなる別の獣医師を探す。
骨肉腫について記述のあるネットの記事や本を探して、また口コミなどから見当をつけた。
西東京市にあるアニマルウェルネスセンター(動物病院)の獣医師Bに出会う。
これまでの状況を全て伝えた。

<獣医師診断と対応>
忙しい病院ではあったが根気良く納得いくまで話し合い、説明を受ける時間を与えられた。
先に述べたような(どこから切除するべきだったか、など)
「こうするべきであった」と反省できる材料を得られた事も良かった。
今後の対応・治療の方向性を説明され、適切で迅速な処置を施された。
この後犬が亡くなるまでの5ヶ月間看てもらう事となる。

具体的には、同意の下に傷口の治療の為の各種検査、薬の処方、
薬液は消毒液ではなくストレスの少ない天然オイルを処方された。

<犬の状態>
獣医師Bのことろに通い始めて約一ヶ月で痛みと傷口のショウ液などから開放される。
メンタルケアを優先する医師のアドバイスにより散歩を始めたことから元気を取り戻し始める。
表情・体力とも今まで一番良い状態となる。


<家族の対応>
転移開始を先延ばしにしたいと副作用も懸念されるが抗がん治療を決意。

<獣医師Bの診断と対応>
抗がん治療は一長一短。そして骨肉腫による断脚後の抗がん治療の効果について
実証されては居ないことを説明。
それでも「出来ることは何でもしたい」という家族の意思から
抗がん治療について計画・施術。


<犬の状態>
抗がん治療1回目後、レントゲン検査により肺に転移が見つかる。
まだ転移による具体的症状は見受けられない。


<家族の対応>
転移が始まり「残り長くて3ヶ月」という医師の見解に大変なショックを受けるも、
ガンの成長速度を遅らせるという望みをかけて2度目の抗がん治療を御願いする。

<犬の状態>
抗癌剤の投与も虚しく肺のガンはさらに成長。
転移が認められてから
1ヶ月後、喀血、血を吐く。
以後呼吸がだんだん苦しくなり始める。

<獣医師Bの診断と対応>
肺に出来たガンによる炎症から内部に血が溜まり喀血した。
止血剤・消炎剤などの処方。

<犬の状態>
喀血は服薬により改善したが、全体的な体力と抵抗力が落ち始めた。
食欲は落ち、
結膜炎や膀胱炎などの免疫力低下による感染症の症状が出始める。

<獣医師Bの診断と対応>
呼吸の苦しさへの最後の手段・対応として経口でステロイド剤を与える。
副作用もある上始めたらやめることが出来なくなるが、
体力が消耗しきってからでは服用させるのが難しくなるのでどの時点で
使い始めるか、時期の見極めが難しいと説明。


<家族の対応>
このころ時折の通院を除いて、病院での具体的処置は無くなっていたので
通常電話で相談して指示を受け、薬は郵送してもらっていた。
ステロイドの使用時期について悩んだが苦しんで眠れない夜が続いた事から
ステロイド使用を決意。
転移発覚後2ヶ月足らずのことだった。


<犬の状態>
ステロイド使用開始後2日ほどで効き始め、それからしばらく期間楽に過ごせるようになる。
ただし全体的に体調・体力は低下。食事も満足に取らなくなる。

<家族の対応>
ステロイドを服用していても苦しい時もあり、発作時にはスポーツ用の
携帯酸素スプレーで対応。
ステロイド開始から2週間後には1日のうちのかなり長時間
酸素供給を要するようになる。
家庭用健康器具の酸素チャージャーを代用とした。
さらにその20日後には
家庭用では事足りなくなり、医療用の酸素濃縮機をレンタル。
最終的にはほぼ24時間稼動させても苦しかった。

<犬の状態>
最終的には酸素吸入も意味をなさなくなるほど苦しくなり、
体中にガンできボコボコに変形した。頭はしっかりしており、
気力と体力だけが限界に達した。


<家族の対応>
こうした状態を支える為、24時間交代で看護、


<獣医師Bの診断と対応>
当初より、肺がんの場合成すすべなく
自然死にまで至らせるのは想像以上に苦しむと提言。

無論その選択は家族の意思が最優先だが「安楽死」を望む場合
その時期をを見極めるのは難しい。
しかし実際極限まで我慢させるのは非常に酷でもあり、
いざ最後処置の為病院へとなると
移動の車で非常に辛く大変な事体になりかねないことなどをアドバイス。


<犬の状態>
断脚から7ヶ月、ステロイド開始からは2ヶ月半。
最後の2週間は苦しさから(肺のつぶれる姿勢)横になることも
伏せの姿勢になることも出来なくなった。
眠れず食事も出来ず、体力の限界の中3本足で一日中息を荒げたまま立ち尽くす。

数日、極限の状態が続いた。


<家族の対応>
苦渋の選択。これ以上の苦しみを止める為安楽死を決意。
携帯酸素ボンベにて対応しながら病院へ行く。

<獣医師Bの診断と対応>
その処置進め方などついて充分に説明する。
処置は厳粛で配慮されたものであり、
苦しまず早い時間で眠るように逝かせた。







以上、もし私の本当に言いたいこと、伝えたいことが伝わったのなら
苦しかったウナも
ウナを苦しみながら看取った私たちも本当に救われると思う。

今でもウナのことを考えると頭が回転しなくなり、
すぐにポロポロと涙が出てしまう。
でもウナはまだ私のそばに居る。
何かウナのことを話すと必ずウナがじっと聞いていると感じる。

まだまだ整理が付かないけど、
こうしてそばに居るウナがまた私を勇気付け
そしてそのうち、流れる時間によって
整理されていく事だろうとも思う。




2005年春 去年の桜
2006年3月31日(金)
ウナのこと エピローグ −3月の無いカレンダー・新たな旅へ−

ウナが亡くなって25日間が過ぎた。
事ある毎に泣いて、外に出るのが辛かった。

花束を手に、骨だけになったウナに会いに来てくれ、
「充分やってあげたじゃない、あんなに頭のいい子だったんだから、
ウナちゃんだってきっとわかっているよ」
「あまり悲しまないように、元気出して」

と励ましてくれる人々も居る。本当に、ありがたいと思う。

だけど、私はまだこの
ウナの不在に因る悲しみを忘れないでいたい。
この辛さと悲しみの大きさが、今は私の中を占めるウナの大きさ
そのものだから。
だから出来るだけ長く泣いていたい。

泣くことが
自然と違う方法に変わるまで、泣いていても許されるんじゃないかと思っている。

ウナがまだ居る時もそうだったけど、時間が
どんどん過ぎていくのが恐ろしい気がしていた。
動物も人間もどうしてこんなにその人生は短く、辛いのだろうと思う。
犬ごときでと笑う人は笑えばいいが、ウナが死んだあと
全てに希望がないようにも見えた。

初七日からさらに1週間くらいはそういう状態が酷くなって、
自分はいわゆるウツ病なんじゃないか、
病院とかカウンセリングに行ったほうがいいんじゃないかと一瞬考えたこともある。

それでネットで
「ウツ病自己セルフチェックテスト」みたいなのを探し出して、やってみたら
「危険度:中程度。一度専門家に相談されてみることをおすすめします」
と、出た。

でもまだちゃんと生きてるし、それなり社会生活も出来ている。
食べられなくなって激ヤセすることもなかった
(むしろその逆、ウナが発病してから
過食症気味になっていた)。
それで、もちろん病院へは行かなかった。

現代の日本という国に住む住民達は、多かれ少なかれみんなウツ病なんじゃないかと思う。
(テレビで我慢するな病院へ行けと宣伝してるくらいだし)
多発するおかしな犯罪に怯え、税金が増えて年金は減り、若いうちから日々老後の心配ばかり、
希望の少ない世知辛すぎる
世情
まともに生きていこうとする人なら誰だってみんなおかしくなる。
ならばもうそれはもうただの
社会現象であって、病気とは呼べないかもしれないと思う。



以前ウナが骨肉腫という奇特とも言える病気を発病した事をある友人に話すと
彼女はこう答えた。

「あぁ、そういうのは家の中で一番弱い存在に行くらしいから・・・」

私達はその時
についての話をしていたのだ。
近年、自分を初め家族の者たちみんなツイていなくて、ウナがいることで救われていたのだ。
それなのに、
何の罪もないウナが、どうして
こんな病気になられなければならないのだろうと私は言った。

我が家は3人の頑固な老人と負け組中年1人と言うウダツの上がらない人間が4人。
そして、ウナを入れて5人という
家族構成

こんな我が家でウナだけが
ピカピカ光る希望の星みたいだった。
横暴・身勝手な父と生真面目すぎる母、
普通なら成り立たない会話も
ウナを介して笑いあったりけん制したり出来た。
多少認知しょうが始まり、耳が遠い為人と話すのが億劫になっている祖母も
頭を
かしげかしげじっと耳を澄ますウナを相手に声を出していた。

私は、いろんな厄にまみれて疲弊した心に
溜まっていく澱を(結果的に)ウナに吸収してもらっていた。
ウナの匂い嗅ぎながら、耳の後ろのふわふわのビロードの様な毛の中に顔を埋める。
真っ黒い被毛の中の、安らかで静かな闇
誰にも言えない、言わない愚痴をウナの身体の温かさやずっしりとした重みが
いつもただ、
だまって受け止めていてくれた。

我が家の中で一番偉く、
わがままに見えるウナは本当は何でも無条件に受け入れ、
我々を癒してくれていた。

そんな大変な仕事をウナは一人で請け負っていた。
無垢で、従順というよりは
ただただ家族に対する愛に満ちていた飼い犬は
そういったいろいろを請け負わざる得なかったともいえるだろう。

弱い存在に行く。友人が言ったのは
そういうことだ。

私達一家の人間がそれぞれに
悪を孕み決定的な厄が下される前に、
ウナは骨肉腫=死という形で一人で
背負い始めた。

骨肉腫は
先天性、遺伝性のあるものではなく、また生活習慣病とも言い難い。
原因がはっきりせず、大型犬に時折見られるとはいえその発症率はとても低いものだ。
それまで病気にかかったことも無く、生活にも気を配って大事に育てたウナがこんな病気になる
謂れなんていくら探しても、
そのことの他には見つからなかった。



私達の家族の中でのウナの存在の大きさ。
今のこのウナの不在はそれと同じくらいの重みと意味を
持ってしかるべきだと思った。
それでこの1ヶ月間、ずっとその意味を探していたのだ。
ウナが充分な理由も無く、あのような病気になり苦しみ、有無を言わさず逝ってしまったこと。
その大きくぽっかりと空いた、
ウナの居た穴に入るべきもの。

ウナ本人がそう言いたかったかどうかはわからないけど、この起きてしまった現象は

もういい加減、しっかりしろ

自立しろと
叱咤された、と言うことなんじゃないかと自分なりに解釈して、
そして今はその答えに揺るがない自信がある。

それしかない。
ウナばかりに頼り寄りかかって、見るべきものを見ずやるべきことを
後回しにして生きる。
そういうことをもう止めろ、しかっかりしろということなのだ。
私以外の家族がこんなことを考えたかどうかは知らないし、強要するつもりはないけど
幾つになっても人間、生きているなら
進んでいけるように努力することが必要なのだと思う。

あんなに
一人が嫌で甘えん坊だったウナは、たった一人で、大空へと新たな旅立ちを果たした。
ウナはがんばったのだ。
甘えることなく、
運命が決めた行くべきところへ行った。

ウナのいた大きな穴に入るべきとてもとても重要なものは、
それは自分で作るこれからの
私の人生そのもの、もうそれしかない。

だから私は泣きながら頑張ってみることにした。



今年の初めある友人が、
カレンダーを送ってきてくれた。
毎年恒例にしようと思っていたのに1月にバリへ行けなかった私の為に、留学当時も愛用していた
毎月違う
ヒンドゥーの神様の絵が入ったバリカレンダーだ。

2月の終わりごろから
修羅場が訪れ、時間が過ぎるのか怖くて3月になってもわざとカレンダーを
めくらずにいた。
3月5日、ウナが死んだ日に呆然とカレンダーをめくると、
あるべき3月がそこには無く、
いきなり4月になっていた。
さすがバリ製。

でもこれはきっと
「この辛い3月は無かった事にしていいよ」というメッセージなのかもと
お見舞いの電話をくれたカレンダーのその友人と
苦笑した。

でも本当は私は笑ってはいなかった。

3月は死んだように生き、そして4月からはしっかりとまた前をみて復活しろという暗示だと信じている。
この世かあの世かに神様とか目に見えないものの
が存在するなら、その何かが
信心深く、そして
呑気なバリ人にこのカレンダーを作らせ、
私を想ってくれる友人を介して
私の手元に届くように仕組んだのだ。

破壊再生。闇とランダバロン
それらが我こそ我こそと終わりのない戦いをすることで生まれるエネルギーこそが
この世界を延々とそして脈々と動かしてきたという
ヒンドゥー教の真理。


自分の考えが正しく絶対と信じられることなんて実はあまりないけど、
この25日間で泣きながら一生懸命見つけた答えは間違っていないと思う。
そうしたいろんなクルー(糸口)を得て、私は今少しすっきりとした気持ちになっている。

ウーちゃん、だから、
おねえちゃんはまた頑張るよ。
ウナが頑張って旅立ったように。




「ウナのこと」シリーズ日記はウナが骨肉腫に罹ったことの始まりから書いてきました。
もう書くことはないかもと言ったけれど、やはり撤回。

私の中で生きるウナは、いまでもやはりとてもウナらしく、なかなかの頑固者です。



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